2017/8石碑の問題点ですが、

 

①場所が判りにくい。

 

②変わる時代に忘れられる。

と思い。ゲームのVRにちょっとメールしてお願いPRにゲームを利用したら?と思い、ポケモンgoのNIANTICのサイトに投稿欄を発見。但し一方的に受けつけず返事連絡しないと書いてあったが、とりあえずホームアドレスとともに発信しておきました。

そして、気になって法事帰郷の折、結果を2017/11/4確認。ポケジムになっていました。(写真参照)*不本意と思われる関係各位があれば、お許し下さい。

2017/10/7

ポケストップの”石碑の祈る”の説明欄に”飛行機製造跡”と記入されていたので、”飛行場跡”と替えて貰うようメールを投稿。(写真の1枚目参照)

2017/8/14 18:40

NHK熊本だけ放送。番組名:"くまロク”ロクいち福岡も放送。時間:午後6:10~40分の間の4分以内。2017/8/15 7:50

NHK九州だけ放送。午前7:00~7:454分以内、番組名:"おはよう九州"

●終戦記念日の特集の九州・熊本の番組でNHK木村さんが再三、牧家、久我家を訪問。

かっての飛行場の歴史と2016の熊本地震で倒壊しお二人で復元した石碑のその旨を紹介。その生き証人である二人の体験者を通じて平和への思いやその石碑の意味を紹介。

2017/2/16 4:30熊本市長と会う

参加者

牧勝美氏、久我政基氏、久我悦子氏、久我章子氏、

市長、市会議員寺本氏、城南町公民館長高浜氏、

熊本市長.大西一史氏と面談

寺本市会議員のお世話により、これまでの経過顛末の報告があり、牧さんから石碑碑文による主旨を説明。

 

熊本市長.大西一史氏:残したら良いものは皆で守っていきましょう。今後は賃貸料などは心配しなくていいです。市がきちんと管理していくという確約はできないけれど、みんなで守っていきましょう。

城南町公民館長高浜氏:自分達も同施設内に石碑があるから、きがけて清掃等含めて皆でやっていきましょう。

 

*市長より、皆さんの貴重な碑、大事にしていきましょう。石碑の借地についてはご心配要りませんという言葉を頂たようです。

2017/2/1

寺本市議員よりてきに具体的に2/16 4:30の市長面談日の決定の連絡が来る

 

2016/10/25

市会議員 寺本氏の相談電話。市議会にも請願することには慎重に見極めながらが大事で、他にも花畑公園の石碑が問題になっているように他にも要件が震災の後だけに山積で埋もれてしまいます、12月にも議会がありますので、請願の必要性はそれまでに判断しましょう。

 

2016/9/19

牧さん宅にて、当時のご体験をお聞きする。

 2017/8/15 

市の管理による史跡(石碑)として、市長宛に請願書を提出しお願いしました。

以下その文面です、代表窓口を牧 勝美さん(連名、久我 政基)。

 

熊本市長 

大西 一史殿   

請   願   書 

   

私共は、先の第二次世界大戦時に隈庄飛行場に勤務しておりました飛行第百十戦隊の牧勝美

 大刀洗陸軍飛行学校隈庄教育隊の久我政基と申します。共に今年96歳とになります。 

当時、祖国の大義に殉じた行為は、全国民が後に続くものと信じて、戦線にはせ参じ、乾坤一擲の当時の風潮の活模範として讃えられました。 ただし、残された家族の悲しみは言うに及びません。還らぬ覚悟で戦局の打開に殉じた将兵が、祖国のために命をささげたことを風化させることはできません。

  むしろ未来永劫に平和を祈る道しるべとして記念すべく、1997年7月同志とともに寄付で「碧空に祈る」と題した碑文(別紙第1;「碑文」参照)を隈庄の文化交流会館駐車場内(飛行場跡地)に建立しました。

  それは、当時いろいろ難しい問題がありそれを当初から国の管理にしていただくことは一足飛びにはゆかず、上田町長に懇願し町議会の協賛を得て公有地内に借地として作らせていただきました。

 30年の借地があと10年を残す今、当事者が次々と他界し、将来の存続と維持・管理について一抹の不安を抱いております。

 この際、悠久の使命に尽力・散華した霊に対して国の管理による史跡として未来永劫に存続でき、後世への我が国の平和の礎として犠牲になられた方々の顕彰をお願いして、平和のために国難に殉じた人たちへの労りとしてご高配を伏してお願いいたします。

 平成28年8月15日

 

請願者代表 

熊本偕行会名誉会長(元陸軍飛行第百十戦隊) 

熊本市南区良町1丁目10番地1 

牧  勝美      

大刀洗陸軍飛行学校隈庄教育隊 

熊本市南区城南町隈庄598番地 

久我 政基     

 

2016/8/31 10:0011:30

 熊本市経済観光局 文化・スポーツ交流部 文化振興課

 濱田安拡氏(以降=S

 熊本市経済観光局 文化振興課(文化財班)主幹兼主査

 小関秀典氏

 熊本市役所 区民部 城南総合出張所

 城南まちづくり交流室長・城南町公民館長(石碑が建つ敷地がある施設)

 高濱辰也氏

  請願者代表 

 熊本偕行会名誉会長(元陸軍飛行第百十戦隊) 陸軍少佐

 牧  勝美

 大刀洗陸軍飛行学校隈庄教育隊陸軍大尉

 久我 政基の

次男 久我 徹 文中以降(K

 

K):19年前に父や牧さんの声賭けで、多くの関係者の寄付と当時の町長や町の市議と話し合い、議会にも取り上げて当時の条件で建立されました。しかし、石碑が今年の地震によって倒壊し、牧氏・久我氏と共に修復しました。ここで石碑のもつ公共性についての矛盾についてのご相談です。

 

 課長より請願の内容についての確認

 

 推進課課長(以降=S):請願はその石碑の意味を改めて、まず二つの観点で考えています。

 

この石碑は 戦争史跡の分類外で文化財として論ずる対象ではないと思われます。史跡としての扱い例えるならば原爆ドームや知覧の防火水槽のように論じる事や歴史上の建造物でもありませんし、県内には西南戦争当時の史跡以外はありません、また歴史建造物でも無いのでそういう意味で文化財指定の範囲ではなく、担当としては検討はなじまないと思います、そのこととその石碑の持つ重みは別ですが。

 

そもそも、当時町の火の君文化交流センター内に土地の借用条件で建立という前提で話を始められました。引き続き借地される話は城南の町の中でのお手続きになるかと思います。

 

 

 

K):今回の請願は元々史跡と言うより、公的なものと考えるべき物で①②合わない論争かと思います。そこからの話だと思います。

 

 私の今住む大牟田では昭和37年の三河抗の災害の被害者を祈る碑が市民体育館の敷地にあります。また、朝倉市の平和会館は7年前の市町村合併の際に個人の資料などの含めた寄贈等で完成、今も平和祈る町の施設として多くの方が訪れいぇいます。展示物は史跡や資料でも施設はそうはありませんが、戦没者を鎮魂し平和を祈るもので例え小さな碑(隈庄の碑)でも同じ意味を持っていると思います。

 

そういう意味合いの碑であり、史跡というより市が率先して平和を忘れず国のために犠牲になった命を鎮魂し二度とこの悲しみを繰り返すまいという碑であるべきと思うのです。さらに石碑は19年前という平和会館建設の歴史より古いのです。

 

 文化財というよりその歴史背景を十分に理解し刻まれたもののであり、今後も町民にとどまらず国民にとって、意味を持つものと受け止めています。当時の世情では無く現在に沿った判断を下す時と思うわけです。改めて見直す必要があります。

 

 S):石碑の修復は個人でされたんですよね。これは個人的に作られた物ととらえているわけではありませんが・・・。

 

 戦争史跡もこの地震に多くが被害を受けています、市は多くのそうゆう復旧にあたっているのですが。

 

 石碑の清掃などはなさっているのですか?

 

 K):その事は良く把握していません。

 

 (牧さん):久我さんのお父さんがしょっちゅう磨きに行かれておられたようです。(後に本人に尋ねたところ、定期的に足を運んでいるとのこと。)

 

(高濱辰也氏):同じく町の火の君交流文化センターにある塚修平先生の碑についても、議会でも議論したが継続審議で今に至っています、廃案になったと思います。ですから現在のところ借地として利用されています。

 

私も町の出身者です遊び場にはそういう史跡がありました。だからそういう平和を祈る気持ちは十分もっています。

 

(牧さん):“ここは飛行場だったんだよ”、それが書いてあるという事や在ることが大事です。そのときの時代背景がある。火の君文化交流センターの敷地にこの碑があってそれを見た方がその飛行場の跡地と判る、それが大事です。ここから爆撃機は沖縄に向かって護衛機無しで飛んで行ったんだよ、そこで国を信じて散ってしまった方が多くいるんです。碑にその歴史が僅かですが書いてあり、それが文化センターにあるという事です。火の君文化センターで管理をしよう。それをそういうふうにお願いをしたいのです。とにかく私たちが生きているうちは私たちが管理をしますが、歳を取っておりますので次に続く方をお願いしている訳です。

 

S):借地としてはまだ10年あります、市が自ら管理するというところまで至っていないのです。

 

(牧さん):ご考慮をお願い致しますということですよね、道筋をお願いしているのです。

 

 S):個人のものではないと言う事ですよね。

 

 K):初めがそうだからそうだというのはいかがでしょうか?最近国や各市町村で対応が異なってきている様です。それに伴って方法をお願いしているのです。例えば荒尾二造の碑(資料、別添“荒尾二造”12頁)は昨年建立され市長や市議会議長が除幕に参列、これは市が土地を提供と書いてあります(コピーして頂く)。

 

 S):これは、市が土地を提供いたものの、作ったのはこの市民団体でその後の維持管理もその団体が行うと言う事ですね。

 

 K):時代の変化ではないでしょうか。その時代に時代に変化があってそういう事実がある以上検討できる時代かもしれません。私はそんな碑が借地という事実に19年前に遡って違和感を感じるし今はもっと思うのです。

 

(高濱辰也氏):当時、行政財産と言う中で文化センターを建設した。その目的外使用と言う形でそこだけ切り取って貸付をしていると言う事なのですよね。今そうゆう風になっています。当時、議会でも色々話をされたということでしたが、上塚さんの石碑については寄贈の話があったのですね。そうなれば、その当時の町の財産となったでしょうが、結果的に今の状態で落ち着きました。 

 

K):荒尾の例に考えれば、今にその結論に方法があるのではと思うのです。その碑はそこにも相当な苦労が在ったようです。しかし、結果荒尾市は動いて頂いた。時代は変り判断が変っていくのではありませんか。すくなくとも19年前とは様変わりです。時代が変っているし、この事は、1020年後でも語り継ぎます。

 

 沈黙・・・。

 

 (牧さん):請願とはよろしくお願いしますという、ご考慮を願いしたいと言う事です。個人的にどうって言う事でなく法律的に考えることです。市長さんとも話して頂き、なんとか研究して頂こうといいう道があるならばと専門家に判断頂き、こういうふうに表面上“これは駄目だ”と言うのではなく道があるのではないか、門前払いでなく研究して欲しい、希望に沿って動いて頂きたい。

 

市長も出来ますとはおっしゃりませんでした、検討はしますと言われました。

 

 S):市長の方からも、牧さんの申し出に当り、お人柄を含めて尊敬に値する方で、難しいところもあろうが、まずは話をじっくりして検討して欲しいと言われました。寺本議員からも話しを頂いています。表面的にはまだ契約が残っていることですし、修復をされている。ただ、ご懸念は現状でなく維持管理移譲依頼の検討ですね。私事ではないということですね。公でということですね。

 

K):これは20年前に遡って当然の事と思っています。

 

(牧さん):市になってやりにくくなりました。

 

S):私どもも国・県・市の文化財の担当ですが、震災後多くの文化財がやまずみです。地域によっては宝という物が多々あります。

 

K):これは史跡では当初お話頂いた様にありません。石碑や遺跡の破損倒壊の問題と同じ扱いにしてしまうと埋没してしまいます。これは復興の順番に埋もれていしまいます。何回も申しますが、これは20年前に遡って鎮魂、平和を祈る象徴として考慮する必要があります。父もそういう思いを込めて清めてきた物だと思います。

 

 S):文化財には色々在ります。それぞれに大切な事例、同じようなものが随所にあります。どこで線引きして市が対応していくのかそれは現状の問題です。

 

K):その話は先程からおっしゃってる事ですね。遺跡では無く、意味が違います。平和を祈り戦没者に手を合わせる碑で、大刀洗平和会館のように扱う必要があります。そして今まで石碑の意味を伝えた方々がほとんど心から賛同頂くに及んで、もっと公的に表に出して多くの方々にお伝えできるものと思います。遺跡は貝塚でさえもその分野です、それとは大きく異なると思います。戦争の記憶をどう残すのか。語り継がれていく。そしてそれは私財で私有地に作る物では決して無いものです。

 

 小関秀典氏):戦争遺産は以前と扱いが変って来ました。以前は戦争は侵略や被害者の歴史を 忘れてはいけないと言われてきた。行政が反省をしていかなくてはいけない時代になってきています。そういう意味で戦争遺跡を放置してきた。しかし、何でいま戦争遺跡と騒がれているのか、戦争の記憶は生き証人があってのもの。しかし、今は皆ご高齢ですそうしたらこれからどうしてそれを伝えるのか。その記憶をどう残すのか、それは遺産によってそれを語り継ぐ時代だと言う流れの訳です。何もないと伝わりませんから、そのような動きがあるのです。そういう意味でこれからはその評価が高まる事と思います。何もないと伝わらないという事です。

 

K):戦犯侵略の言葉でさえタブーです。

 

小関秀典氏):平和の象徴として、時代はどんどん評価がされものと思います。後世の記憶に残す為に大事な碑として重要と思います。隈庄の歴史のためには重要なものと思います。

K):この件では国に請願をしたいと思っています。市議会の請願については寺本氏に相談しましたが、9月に議会が始まりますが、市長請願が先にしたほうが良いし、必要なら12月まで提出をずらした方が良いと思います。

 

S):市長の請願を優先されたほうがいいと思います。議会の請願も不採択にでもなるとまた一歩後退という事になるので、寺本先生が申されるように、むしろ市長請願で協議工夫したほうがより合理的で良いと思います。寺本先生も町の事を良くご存知ですから。

 

K):あと公明党の鈴木団長も後押し頂いています。

 

S):寺下先生から聞いております。ここでこうしますと言えるものでもありませんし、私的に管理してくださいとも言え無いと思います。

 

K):話せば話すほど賛同者が増えます。これからもそのように多くの方に話したいと思います。

 

S):高谷さんと話して沢山有ると判りました。

 

将来の不安があるということですよね。整理させて頂いて、どういう風にご返事できるか判りませんが、寺本先生ともおお話できる機会がございますので・・。報告して・・。

 

K):19年前に父や牧さんの声賭けで、多くの関係者の寄付と当時の町長や町の市議と話し合い、議会にも取り上げて当時の条件で建立されました。しかし、石碑が今年の地震によって倒壊し、牧氏・久我氏と共に修復しました。ここで石碑のもつ公共性についての矛盾についてのご相談です。

 

 課長より請願の内容についての確認

 

 推進課課長(以降=S):請願はその石碑の意味を改めて、まず二つの観点で考えています。

 

この石碑は 戦争史跡の分類外で文化財として論ずる対象ではないと思われます。史跡としての扱い例えるならば原爆ドームや知覧の防火水槽のように論じる事や歴史上の建造物でもありませんし、県内には西南戦争当時の史跡以外はありません、また歴史建造物でも無いのでそういう意味で文化財指定の範囲ではなく、担当としては検討はなじまないと思います、そのこととその石碑の持つ重みは別ですが。

 

そもそも、当時町の火の君文化交流センター内に土地の借用条件で建立という前提で話を始められました。引き続き借地される話は城南の町の中でのお手続きになるかと思います。

 

 

 

K):今回の請願は元々史跡と言うより、公的なものと考えるべき物で①②合わない論争かと思います。そこからの話だと思います。

 

 私の今住む大牟田では昭和37年の三河抗の災害の被害者を祈る碑が市民体育館の敷地にあります。また、朝倉市の平和会館は7年前の市町村合併の際に個人の資料などの含めた寄贈等で完成、今も平和祈る町の施設として多くの方が訪れいぇいます。展示物は史跡や資料でも施設はそうはありませんが、戦没者を鎮魂し平和を祈るもので例え小さな碑(隈庄の碑)でも同じ意味を持っていると思います。

 

そういう意味合いの碑であり、史跡というより市が率先して平和を忘れず国のために犠牲になった命を鎮魂し二度とこの悲しみを繰り返すまいという碑であるべきと思うのです。さらに石碑は19年前という平和会館建設の歴史より古いのです。

 

 文化財というよりその歴史背景を十分に理解し刻まれたもののであり、今後も町民にとどまらず国民にとって、意味を持つものと受け止めています。当時の世情では無く現在に沿った判断を下す時と思うわけです。改めて見直す必要があります。

 

 S):石碑の修復は個人でされたんですよね。これは個人的に作られた物ととらえているわけではありませんが・・・。

 

 戦争史跡もこの地震に多くが被害を受けています、市は多くのそうゆう復旧にあたっているのですが。

 

 石碑の清掃などはなさっているのですか?

 

 K):その事は良く把握していません。

 

 (牧さん):久我さんのお父さんがしょっちゅう磨きに行かれておられたようです。(後に本人に尋ねたところ、定期的に足を運んでいるとのこと。)

 

(高濱辰也氏):同じく町の火の君交流文化センターにある塚修平先生の碑についても、議会でも議論したが継続審議で今に至っています、廃案になったと思います。ですから現在のところ借地として利用されています。

 

私も町の出身者です遊び場にはそういう史跡がありました。だからそういう平和を祈る気持ちは十分もっています。

 

(牧さん):“ここは飛行場だったんだよ”、それが書いてあるという事や在ることが大事です。そのときの時代背景がある。火の君文化交流センターの敷地にこの碑があってそれを見た方がその飛行場の跡地と判る、それが大事です。ここから爆撃機は沖縄に向かって護衛機無しで飛んで行ったんだよ、そこで国を信じて散ってしまった方が多くいるんです。碑にその歴史が僅かですが書いてあり、それが文化センターにあるという事です。火の君文化センターで管理をしよう。それをそういうふうにお願いをしたいのです。とにかく私たちが生きているうちは私たちが管理をしますが、歳を取っておりますので次に続く方をお願いしている訳です。

 

S):借地としてはまだ10年あります、市が自ら管理するというところまで至っていないのです。

 

(牧さん):ご考慮をお願い致しますということですよね、道筋をお願いしているのです。

 

 S):個人のものではないと言う事ですよね。

 

 K):初めがそうだからそうだというのはいかがでしょうか?最近国や各市町村で対応が異なってきている様です。それに伴って方法をお願いしているのです。例えば荒尾二造の碑(資料、別添“荒尾二造”12頁)は昨年建立され市長や市議会議長が除幕に参列、これは市が土地を提供と書いてあります(コピーして頂く)。

 

 S):これは、市が土地を提供いたものの、作ったのはこの市民団体でその後の維持管理もその団体が行うと言う事ですね。

 

 K):時代の変化ではないでしょうか。その時代に時代に変化があってそういう事実がある以上検討できる時代かもしれません。私はそんな碑が借地という事実に19年前に遡って違和感を感じるし今はもっと思うのです。

 

(高濱辰也氏):当時、行政財産と言う中で文化センターを建設した。その目的外使用と言う形でそこだけ切り取って貸付をしていると言う事なのですよね。今そうゆう風になっています。当時、議会でも色々話をされたということでしたが、上塚さんの石碑については寄贈の話があったのですね。そうなれば、その当時の町の財産となったでしょうが、結果的に今の状態で落ち着きました。 

 

K):荒尾の例に考えれば、今にその結論に方法があるのではと思うのです。その碑はそこにも相当な苦労が在ったようです。しかし、結果荒尾市は動いて頂いた。時代は変り判断が変っていくのではありませんか。すくなくとも19年前とは様変わりです。時代が変っているし、この事は、1020年後でも語り継ぎます。

 

 沈黙・・・。

 

 (牧さん):請願とはよろしくお願いしますという、ご考慮を願いしたいと言う事です。個人的にどうって言う事でなく法律的に考えることです。市長さんとも話して頂き、なんとか研究して頂こうといいう道があるならばと専門家に判断頂き、こういうふうに表面上“これは駄目だ”と言うのではなく道があるのではないか、門前払いでなく研究して欲しい、希望に沿って動いて頂きたい。

 

市長も出来ますとはおっしゃりませんでした、検討はしますと言われました。

 

 S):市長の方からも、牧さんの申し出に当り、お人柄を含めて尊敬に値する方で、難しいところもあろうが、まずは話をじっくりして検討して欲しいと言われました。寺本議員からも話しを頂いています。表面的にはまだ契約が残っていることですし、修復をされている。ただ、ご懸念は現状でなく維持管理移譲依頼の検討ですね。私事ではないということですね。公でということですね。

 

K):これは20年前に遡って当然の事と思っています。

 

(牧さん):市になってやりにくくなりました。

 

S):私どもも国・県・市の文化財の担当ですが、震災後多くの文化財がやまずみです。地域によっては宝という物が多々あります。

 

K):これは史跡では当初お話頂いた様にありません。石碑や遺跡の破損倒壊の問題と同じ扱いにしてしまうと埋没してしまいます。これは復興の順番に埋もれていしまいます。何回も申しますが、これは20年前に遡って鎮魂、平和を祈る象徴として考慮する必要があります。父もそういう思いを込めて清めてきた物だと思います。

 

 S):文化財には色々在ります。それぞれに大切な事例、同じようなものが随所にあります。どこで線引きして市が対応していくのかそれは現状の問題です。

 

K):その話は先程からおっしゃってる事ですね。遺跡では無く、意味が違います。平和を祈り戦没者に手を合わせる碑で、大刀洗平和会館のように扱う必要があります。そして今まで石碑の意味を伝えた方々がほとんど心から賛同頂くに及んで、もっと公的に表に出して多くの方々にお伝えできるものと思います。遺跡は貝塚でさえもその分野です、それとは大きく異なると思います。戦争の記憶をどう残すのか。語り継がれていく。そしてそれは私財で私有地に作る物では決して無いものです。

 

 小関秀典氏):戦争遺産は以前と扱いが変って来ました。以前は戦争は侵略や被害者の歴史を 忘れてはいけないと言われてきた。行政が反省をしていかなくてはいけない時代になってきています。そういう意味で戦争遺跡を放置してきた。しかし、何でいま戦争遺跡と騒がれているのか、戦争の記憶は生き証人があってのもの。しかし、今は皆ご高齢ですそうしたらこれからどうしてそれを伝えるのか。その記憶をどう残すのか、それは遺産によってそれを語り継ぐ時代だと言う流れの訳です。何もないと伝わりませんから、そのような動きがあるのです。そういう意味でこれからはその評価が高まる事と思います。何もないと伝わらないという事です。

 

K):戦犯侵略の言葉でさえタブーです。

 

小関秀典氏):平和の象徴として、時代はどんどん評価がされものと思います。後世の記憶に残す為に大事な碑として重要と思います。隈庄の歴史のためには重要なものと思います。

 

 

 

K):この件では国に請願をしたいと思っています。市議会の請願については寺本氏に相談しましたが、9月に議会が始まりますが、市長請願が先にしたほうが良いし、必要なら12月まで提出をずらした方が良いと思います。

 

S):市長の請願を優先されたほうがいいと思います。議会の請願も不採択にでもなるとまた一歩後退という事になるので、寺本先生が申されるように、むしろ市長請願で協議工夫したほうがより合理的で良いと思います。寺本先生も町の事を良くご存知ですから。

 

K):あと公明党の鈴木団長も後押し頂いています。

 

S):寺下先生から聞いております。ここでこうしますと言えるものでもありませんし、私的に管理してくださいとも言え無いと思います。

 

K):話せば話すほど賛同者が増えます。これからもそのように多くの方に話したいと思います。

 

S):高谷さんと話して沢山有ると判りました。

 

将来の不安があるということですよね。整理させて頂いて、どういう風にご返事できるか判りませんが、寺本先生ともおお話できる機会がございますので・・。報告して・・。

飛行学校隈庄教育隊として開設され約壱千名のパイロットが巣立ち、各戦隊に配属され陸軍航空の中堅として活躍し、多くの若者たちが大空に散華しました。さらに戦局の推移に伴い飛行場は実戦態勢に入り、教育隊は移転し飛行第百十戦隊の基地となりました。

この戦隊は最新鋭重爆撃機飛龍で編成された部隊で沖縄作戦に出撃し、多くの若者達が還らぬ人となりました。このように多くの尊い人命を犠牲にしたことは後世においても忘れることのできない救國の史実として範とすべきものと信じます。

 

2016/8/15 10:00~

熊本市市議会議員 寺本氏に牧さんと久我の次男とともに石碑のことで相談。

 

2017/2/16 pm16:00~(15分)

熊本市長  大西 一史氏

 

熊本市経済観光局 文化・スポーツ交流部 文化振興課

 課長 濱田安拡氏(以降=S

  熊本市役所 区民部 城南総合出張所

 城南まちづくり交流室長・城南町公民館長

 高濱辰也氏

世話人代表 市会議員 寺本 義勝氏

  請願者代表 

 熊本偕行会名誉会長(元陸軍飛行第百十戦隊) 陸軍少佐

 牧  勝美

 大刀洗陸軍飛行学校隈庄教育隊陸軍大尉

 久我 政基

妻   久我 悦子

長女 丸田 章子

 

市長市議会会期中につき多忙、顛末説明を寺本氏より説明。

牧氏より石碑文の説明。建立の意味をお伝えする。

市長より”市の管理までは他の懸案もあり難しいところがありますが、皆で大事にしていきましょう。借用期間についてはご心配いりません”と伝えられる。

牧氏、久我氏お礼を述べる。

 

 

2017/3/11

戦争遺跡ネットワークの高谷さんメール

隈庄飛行場のリーフレットA4の6ページ分、写真付きで印刷。隈庄の飛行場の当時の写真と三船敏郎の写真とコメント。遺跡数々と熊本地震被害における実態写真。

2017/4/1

隈庄の文化交流会館駐車場内(飛行場跡地)横

熊本市立 城南図書館にて戦争遺跡ネットワークの高谷氏

隈庄飛行場のリーフレットA4の6ページ分、写真付き配布開始。