第一部


平成17(2005)年お正月、みんなが集って楽しい団欒の一時、すその2人の孫娘も成人式、夫婦心新たにわが道へ出発する子供達を眺めては20年前、30年前、そして戦後60年(2005年)の我が姿節目に振り返り夢の間の一瞬、そして又、この子達に勇気を得て一途に励んだ想いでの数々を懐かしく思い浮かべる。

かっての戦友同輩も今や殆ど逝き、この齢まで生かされる喜び、運命の不思議さを思い乍、記したくなった。

思えばわが人生も不思議よねー。今、親愛なる子供達に語っておきたいと徒然の思いを書いてみる。

昔私が中学1年の夏休み、連合艦隊が鹿児島志布志湾に停泊していた。いつも海岸に立って眺めた。或る日水上偵察機が河口に不時着した、一目散に駆けて見に行った。エンジンの故障だったらしい、直ぐ救援のボートが来た。傍に立つ飛行服姿のパイロットの凛々しさ、まるで神様のように見えた。何も特徴を持たない私は例え明日の命は無くてもこんなパイロットになれないかと真剣に考えた。

中学2年で陸軍幼年学校を受けて不合格、4年で陸士・海兵を受けて不合格、5年で同じく陸士・海兵不合格。丁度その頃、通信省直轄の航空局操縦学生の募集があり同時に受験したら合格した。

昭和13年満17歳、第一期生として全国で20名。官費、官給、官食と至れり尽くせりの待遇で、月手当て15円、危険手当15円計30円が支給された。パイロットの受験には親の認可が必要だった、無断で印鑑を押した。

その頃学校の先生の初任給は35円だった。

校長は陸軍航空兵少佐、斉藤国三郎、操縦教官は航空兵推尉5人、助教は退役者10名程度いた。飛行機は4人で1機に助教2人。他に整備班、通信班、衛生班、教官班先生4名事務職員10人、気象班等、僅か20名には勿体無い施設だった。

午前は色々の学課、午後は操縦訓練、毎日命おあずけの心境だった。

昭和14年18歳で2年目、我等6名が陸軍操縦仕官候補生に応募して熊谷航空学校に入校した。他の所属から来た基本教育を受けた者を合わせて20名。高等練習機による訓練に入り、2ケ年を経て昭和16年20歳、飛行第4戦隊の実践訓練に入る。

戦闘隊に入隊したのは4人、九七戦と隼戦闘機で連日空中戦、遠距離航法、夜間飛行、実弾射撃は海上に出て吹流し機を発見するや急上昇、高度5000m3機づつ追行する、吹流し機高度差600mで反転して急降下、150m付近から発射約10発、3回下に潜って急上昇を繰り返す。

我が弾に夫々色がついているので弾痕で命中率が判定できる。

昭和16年6月、航空兵少尉に任官する、20歳だった。宮崎の新田原飛行隊に転属、さらに昭和16年8月隈庄教育隊に転属となる。

軍属の人の世話で久我家に下宿することになる。楽しい毎日を過ごす。

早速基本教育を卒えた少年航空兵15期生の区隊長だった。

下宿先ではばーちゃんに大事にして貰ったが当時小学校5年生だったカーさん(悦子)は可愛くて暇さえあれば一緒に歌い、散歩、日曜は外出と、いつも手をつないで遊んだ。どこにでも連れて行った。

漸(ようや)く戦雲急を告げる状況がせまる、12月8日、日米開戦、真珠湾攻撃。

我等1000時間以上の搭乗時間のパイロットは次々南方戦線へ、私は不思議やな・・・茨城県の筑波飛行隊に帝都防衛と教育を兼ねて転属。その時昭和17年4月連勝に浮いている時、想像もできない帝都空襲の警報が響く。アメリカ航空母艦はひそかに日本に接近し中型爆撃機を発艦させ東京を一経過で爆撃、其の侭中国に向かって去る戦法で度肝を抜く、我が方の防空戦隊邀撃に上がれど既に敵の機影追いつかず、唖然、涙を呑んで、燃え盛る市街を見た。

(21歳)日米開戦で我等パイロットはあの大空で散華する事を覚悟していた。開戦後、隈庄を離れる時バーちゃんに別れの言葉を言った。

『若しいつの日か生きて還る事があったら必ずこの娘(こ)を嫁さんに貰いにきますよ。』

無責任なことを言ったかと後悔したがどんな気持ちで受け取られたろうかと思った。1年後又も不思議やな、昭和18年再び隈庄に転属(22歳)航空兵中尉昇進する。

更にこの間、福岡の飛行隊に移動、重慶からアメリカ機の北九州爆撃情報に対する迎撃隊へ。夜間B29の空襲に我が方は隼戦闘機。高度1万m以上になると酸素欠乏で350mのスピードでは追いつかず歯痒い思い。他の戦隊の四式戦が3機撃墜した。

2ケ月後再び隈庄飛行隊にかえり教育に従事する中、昭和19年朝鮮太田教育隊長(23歳)。昭和20年1月京城隊長(24歳)。(当時まだ先輩が居るのに何故私を隊長にするのだろうと不思議なことだった。)

次々同輩の戦死を聞く。もはや戦雲急を告げる。

大尉昇進;京城飛行場には朝鮮軍の飛行班(連絡機1機)、航空師団司令部の飛行班(連絡機1機)、民間日本航空朝鮮本部が置かれ高級参謀他、色々の要人が発着する飛行機の連絡にくるのだった。

京城飛行隊長は飛行場司令として飛行場使用発着の統制が任務づけられていた。飛行隊の衛門には『小屋敷隊』の標識が掛けられ5名の衛兵が常時立っている。隊長が公用で隊長旗を立てて外出する時衛兵は整列して送り迎えするのだった。

航空兵大尉の一独立隊長が大部隊の戦隊長クラスと隊等の礼式だった。

或る時、師団長に同行して来た参謀が独立隊長の在り方に「偉いなあ」と声をかけてくれたことがあり誇らかな気分だった。

その隊に300時間以上の搭乗時間のパイロットが25名居た。

もはや近代戦は航空機に限られ空を制することが戦勝の自明の理だった。教育と併行して特攻隊を編成する事になった、5機3ケ隊15名である。飛行機は97式戦闘機、連日仁川港を回り漢江を登り汝牟島の目標迄超低空、急降下訓練の毎日だった。

昭和20年5月第一隊を内地の基地に送った。この壮行会訓示に、古来我が国の武士道は君の御馬前に討ち死にするを最も名誉と心得た、今日の戦運如何なる状態にあろうと全軍に先駆けて突進するはパイロットを志した者の誇りであり宿命である。

これ迄鳥人と称えられた栄誉、多年鍛えた技術を発揮して君国に捧げよう。

我々も必ず後に続くであろう、と述べた。

9月に入り大邱飛行場(現在の大邱国際空港テグこくさいくうこうに移動する。11月釜山に移動する。復員船の興安丸に乗船、折りしも台風襲来で5日間乗船のまま、水不足、食料不足に悩むのだった。山口県の仙崎に上陸、復員の言い渡し、夫々第二の人生を強く乗り切らんと誓い合って故郷へ。

鹿児島は武の国。昔パイロットは近在には一人もなく神様的存在だった。パイロット道への出発に当り村人は勿論、小学校の全校生徒が学校の前の道路に整列して送ってくれた。休暇で帰郷して学校から講演を頼まれた。

今、その故郷に帰る哀れさはやり切れぬものが合った。敗軍の将、兵を語らず。苦しく淋しく悲しい存在だった。

折から農家は農地開放を迫られ、地主は自作農しか認められずそれ以外は小作人に渡さなければならなかった。

山林五十町歩は其の侭で、当時戦後復興に木材は貴重なもので田地は失っても山林が残って有難い事だったと父は言った。

毎日する事は無く、悶々の時を過ごした。あの開戦に際し同輩殆ど南方戦線に散った。何故我独り残り内地、朝鮮勤務を命じられたか・・悔しかった。命永らえたのを喜ぶべきか若くても隊長の資質ありと見られたのであろうかと、自らを慰めるのだった。

波見から海岸線を4~5km先に父が開拓した3町歩の蜜柑園があった。中学時代の夏休み、そこに別荘を兼ねて建てた家があったので良く行った。

広い海、その海岸に網場を持っていた(父の経営)蜜柑園に泊まって自炊した。父も時々来た。網場の人が魚はくれる。蜜柑園の人夫の人が野菜等くれるので不自由はなかった。退屈でそんな事を想い出してその蜜柑園で過ごしたりした。毎日網上げの手伝いをしたり、魚釣りを一緒にさせて貰ったりした。

昭和22年悦子は女学校4年生、便りをくれた。母の病気を知らせる。

当時悦子の兄(晃)は砥用に養子、長男浩は満州で死亡との事で、母娘の生活を気の毒に思うのだった。『この娘を貰いに来ます』と言った事が頭にこびりついていた。

戦後我等は公職追放で公職に就く事ができなかった。今この地で醜態をさらす事は死ぬ程苦しい事だった。私に出来ることは何だろうと考えた、商売人になろうと決心した。

それは悦子と結婚する事だった。全然知らない人達が相手ならどんな恥をかいても堪えられる。昔の事を総て忘れて一途に商人の卵として頑張れば必ず成功する自信があった。

両親に覚悟の程を話した、勿論反対された。それは養子縁組だから。ここに居れば家屋敷、土地山林がある。農協にでも務めて悠々と暮らせるようにしてやれる。

明治維新で武士が商人になり、武家商法といって成功したものは一人も居なかったと父は言う。母はかって私が隈庄に居る時面会に来た事があった。バーちゃんと一緒に飛行場に来た。目の前で隼戦闘機で宙返り横転、反転、急降下、急上昇と特殊飛行をやった。低空で迫る飛行機にあたりをはばからず万歳万歳と叫び続けたとバーちゃんが話した。我が産んだ子がパイロットになったと評判になり、始めの危険視はいつしか誇りになっていた。

他家に出すことは絶対に許されないと泣いて反対した。

昭和22年暮れ、意を決して故郷を捨てた。昭和23年バーちゃんは独りで波見を訪ねた。不便な長距離、汽車から船に乗り換え、古江駅から高山駅までポンポコ汽車、駅に父が迎えに来て居たとの事だった。その後2人でテクテク歩いて1日がかりで着いた。悲壮な思いだったであろう。

バーちゃんの思いは暗黙の中に察知して父は色々案内して2泊して帰途につく。

私は戦中の荒廃した状況から復興には家具・建具材木の必要を感じた。大川に出かけて色々眺めながら、或る家具製作所に立ち寄り事情を話して弟子入りを頼んだ。所長は快く引受けてくれた。そのまま職人達との仲間入り、職人5人の大工道具の手入れから始まった。鉋・ノミの研ぎ方を教わり毎日5人の道具研ぎに追われた。初めは丸研ぎになり文句を言われたが、次第に上手になった。その間職人の作る材木運びや掃除など雑用が多かった。

お昼は職人と一緒だった、力仕事の職人達のオカズはこんなに塩辛いものかと驚いた。夜は2階の職場の隅に寝床を敷いて貰った。又一人弟子入りの志願者が来た。熊本市の家具の大万の弟であった。一緒になって賑やかなことだった。

材木の名前、選び方、板削り、穴掘りが続く。やがて、家具の塗装・家具の取り付け、先輩たちが作り上げた製品に失敗は許されない。

小売商人や卸屋に受け渡しや運搬など、色々体験する。

此処の製作所長は後々まで世話してくれた。一緒に弟子入りした男は佐世保から来たと言う兄2人が熊本に家具の店を出す事で家具の知識を得たら、熊本に家具店の用地を探し準備をするようにと言われて来たと言う。

付き合っている中、そんな度胸の或る男に見えた。その家に綺麗な娘さんが居た、その人と付き合って結婚したと後日熊本で聞いた。

熊本の上通りに小さな家具店をつくり兄弟を呼んだ。この兄弟やくざ的な所があると見た、忽ち隣の店を買占めやがて熊本一の『家具の大万』にのし上った。

この弟を通じ社長とも親しくなり、その商法を眺めた。その弟は上通りに店を出すに当り世話になったという人を私に紹介した。警察官上がりで人品良く奥様は美人だった。

お付き合いすれば為になるよと言った、その弟はいつの間にか熊本を去っていた。

家具の大万は大型店に登りつめて、20年後ついに倒産、姿を消した。驕れるもの久しからずを知らされるのだった。

昭和23年、家具・材木の種類、良質、特長、商法の流通状況を勉強して隈庄へ帰る。その年の3月、悦子女学校を卒業するや結婚する事になる。郷里には一切頼ることは出来ないと固く覚悟を決めていたが一応連絡した。

父はでかけて来た、子を思う親の気持ち。

家の前が銀行で支店長と親しくお付き合いをしていた。支店長を媒酌人にお願いして快く引受けて貰った。川尻の平川ミヤおばさんを立会人にお願いして、総勢6名のささやかな記念すべき結婚式を挙げた。我が子の結婚式、父の思いいかばかり、何時の日か必ず安心して頂ける日、喜んで頂ける事を心の中に固く誓うのだった。父は心の広い人、私の心中を読みとってか、2・3泊して帰っていった。

久我家は食糧営団に貸してあった、商売をする為に開放を求めた。絶えず交渉を続けても頑として動かず遂に掴みかかって大騒動となった。

大万の弟が熊本市大万の出店に際し世話人を頼んで店作りした話を思い出した。その人を訪ねた、理を話すと食糧営団は林田市長(城南の昔の町長の弟)が関与してる筈だから話してあげようと言われた、間もなく開放が始まった。

商売をやるには資金が必要だった、取敢えず3万円が必要だった。支店長は無力の私を信じて承諾してくれた、しかし保証人は必要である。熊本市の久我明正に頼んだ、然し軍人あがりが商売できる筈が無いと見たのだろう、あっさり断った。

他に頼む人は居ない、支店長に話すと、どんな方法だったか、私の苦衷を察してか出してくれた。今も恩人として大事にお付き合いしている。

苦難を脱出して開店が迫る、私の第二の人生の幕開き、希望輝く昭和24年、前途洋々・・・