第三部


商戦という言葉を始めて実感する、昭和25年

建具についで家具を仕入れて店一杯に陳列するとさすがに堂々久我家具店の威容を誇り得意になって来客を案内した。商品の主力は嫁入り道具でタンス・長持・下駄箱・タライ・鏡台・針箱が一式で、その売り上げ高と利益は大きく然も一部落に年間一軒しかない嫁入り先を掴み取った時は大きな宣伝効果にも繋がるのだった。然し見に来る客はあっても又来ますと立ち去る、お客さんを見送る時は恨めしく悔しい思いだった。

或る日、W家具店が嫁入り道具を一杯リヤカーに積んで配達しているのを見た、とても得意気に見えた。

次の部落でやっと嫁入りが決まったという家を聞き出し、訪ねて見ると渡辺さんから買ったと言って堂々と表の部屋に並べられてあった。聞かれる度に久我家具店と自己紹介しても別段気の毒がる風もなかった。

悔しさ例えようも無く地団太踏む思いで命がけの商戦という言葉を初めて実感した。

 

商売人になりきらねばならない。

宇土市にはE家具店が一軒だった、隈庄で家具商を始めた久我ですと自己紹介して商売を教えて下さいと頼むと、優しい人柄で親切に自慢げに話してくれた。忽ち親しい先輩付き合いで商人の勉強をさせて貰った。

宇土町は同業者が居らずのんびりムードの中に、夫婦と子供2人の家族で余裕綽々の生活ぶりに安定した楽しさが伺われた。彼はとても頑張り屋で福岡の大川まで仕入れの為に自転車で数回行ったと聞いて驚いた。元々家具職人だったとの事で人好きのする真面目なタイプ乍私が直面している「外交して戦い取る」商人魂は見られず15年後新鋭の家具店におされて店を閉じた。

 

松橋の家具店を時々のぞく

松橋町にはS家具店とN家具店の2店が堂々戦前より店を張り競争していたとの事だった。Sは隈庄、W家具店の実家である。松橋の2店の中を覗くと、店内広々と陳列の家具が豪勢に見えた。入り口に大きな看板と、旗を立て既にこの2店が競走場裡に立ち、鎬を削っていることを感じた。W家具店の商魂は此処で叩き込まれたのかと改めてわが敵愾心をあおる。

川尻の町は古くから木工の町だった

大きな家具店が一軒あった、他は合同木工所一軒、長持製作所、下駄箱、整理タンス製作所が軒を並べ自家製は人気絶頂でいよいよわが競争意欲を煽る、長持ちは横に長い夜具いれで嫁入り道具の一つだが、川尻で作ったのを買い入れた小母さんがリヤカーに1個積んで運んでくるのだった。

蝿入らずを作る職人が居た、お膳に被せる一人用の蝿入らずで当時珍重された。10台買い入れて自転車に積み緑川右岸の各部落を外交を兼ねて軒別に廻り嘉島の高田で売り終わり、緑川橋を渡り意気揚々と引きあげる、途中嫁入り迄見つけたと言へば、母さん達が「凄い」と言って喜んでくれた。

川尻の桶屋にタライを注文する、大小三つ組が嫁入り道具の一つである。初めに川尻の蝿入らずを10個買い入れて今度は緑川左岸の部落、富合町大町、小岩瀬・杉島・釈迦堂へと足を踏み入れた事のない部落を廻って売り歩いた。

城南町外の知らない所ばかりを恥じも外聞もなく廻ることで自然に商売に慣れてきた。

杉上に差し掛かり蝿入らず1個残った、ままよと意を決し杉上、坂本の或る家に寄ったら気持ちよく買ってくれた。後年、坂本の大沢さん(奥さん)が買い物に来てあなたが売りに来た。蝿入らずを買ったのよと話され、恥かしいような反面商売人になった自信を頂いたようで嬉しかった。以来感謝をこめてお付き合いして杉上方面の情報源として永くお世話になった。

 

付き合いを増やし情報を得る

憎っきW家は寝た間も忘れぬ商売仇だった。

外交で或る家を訪ね、そっと覗くとWが大声でしゃべりたてて居る。家の裏に隠れて彼が帰るのを待つ。帰ったのを見届けておもむろに話しかける、私が懸命にしゃべっても興味を見せず、宜しくお願いしますと言って帰りながら、ここで挫けてはならぬと何回も訪ねる。良くしたもので夫婦に好き嫌いや条件があって、3軒の中1軒位は我が手に落ちた。

遠攻近守をあみ出す。

この時代、外交販売する店はなかった。どうして私達だけこんなに激しい商売合戦しなくてはならないだろうかと歯痒かった。隈庄町外を外交する。或る時嘉島方面に足を伸ばしたら上島の人が買いに来てくれた。甲佐町の阿曽原、船津方面で外交の手ごたえがあり私の誠意にこたえて買いに来てくれた。感謝の気持ちで仏様に両手を合わせた。以来豊野村から中央町へ松橋は古保山曲野、宇土町は轟村・緑川・住吉網田、熊本は御幸笛田海路口・高橋迄、他の店の外交の手が伸びないので向かう所敵なしの勢いになった。意気衝天の勇気が湧いた。

家具建具溝を始める

買ってくれた人を大事にしてその部落の溝主になった貰うよう働きかけ成功した。遠来のお客に対してバーちゃん、母さんの心からの応対に客は親しみを覚え、以来その部落に外交に出たら必ず立寄り土産など持参して新商法となる講会の根拠地にさせて貰った。

 

部落で56人の人を会員になって頂き日を決めて集まって貰い規約を話し乍お茶会にした、酒も出した。意気投合して会員は年々増え15・6名になった。毎日千円納め必要な時に年間1万2千円の買い入れができる。超過分はその場で清算する。

その講は評判よろしく遠く熊本市は天明の海路口・御幸笛田・嘉島の仲間、上島、高田、鯰。御船の辺田見・甲佐の船津、阿曾原、津志田・中央町、堅志田・豊野、上下郷・松橋の古保山・宇土住吉・富合の各部落に創設。初市や祭りの時は案内してご馳走する、入れ替わり立ち代り超満員の騒ぎに近所の人達は不思議な情況よと目を見張った。

店は活況を呈しW家具店の脅威は感じなくなった。買った頂いた商品に甲佐の誰々様、松橋の誰々様、宇土の誰々様と大きく張り出した。来る人は皆この遠来の客に久我家具店の信用度を高めた。遠くを引き寄せたら近くは自ずとついてくる我が遠攻近守の戦法は見事成功した。

 

建築大工は貴重な存在だった

暫く戦後の建築ブームが始まる。素人商人がやる私の商売の繁盛振りを眺め、F家具店が店を出し洋館造りで異彩を放った。この頃は次第に単車、自動三輪車時代となりリヤカーを捨て三輪車で運搬するようになった。運転者を雇いやがて自動車もトヨエースとなり我が車で仕入れに行くようになった。単車は「陸王」、外交に出る。仕入れに行く。忽ち子供は勿論、大人達迄取り巻いて離れず、久我の名は陸王で一躍有名になった。

F家具店は当然私を競争相手にして活動を始め三家具店の巴戦が始まる。私の講会を真似て町内近くの部落に講を作り始めた。或る朝、運転手が出勤しないので可笑しいと思っていたら、F家具店の自動車に乗っていたよと教えてくれた人が居た。運転手を引き抜かれ腹が立ったが放置した。

 

建築修築ブーム到来

まさに大工様々の時代に入り、建具を売るには大工を取り込まなければ商売にならなかった。既製品の建具は大川から沢山仕入れて在庫豊富で自信があった。

然し熊本は桧木材が多く何所の町にも桧で建具をつくる職人が居た。彼等が作る建具は注文品で吾等の売る建具は杉の既製品であると言って我等の外交をはねつけた。この頃KGも建具の販売店を出す。

 

合名会社久我木工所と改名を届ける。建築の建具注文を取るには、その家の寸法に合わせて桧材の建具を揃えねばならなかった。御船の職人、川尻の職人、熊本市の職人に桧材の建具を作って貰い陳列した。

意外に評判は良かったが大工を引き付けるまでに到らず、ついに乾坤ー擲の運命を賭けて、のるかそるかの勝負を決意する事になる。

木工機械を一式据えつけて職人を置き製造販売迄やる事は大事業である。バーちゃん母さんに決意の程を話した。バーちゃん母さんは総てを信じて励ましてくれた。銀行の融資もできた。工場を建てた(奥の住まいの部分)大川に弟子入りした時の主人に木工機械の自動削り機2台、自動ノコ等世話して貰った。職人は年配者1人弟子上がりの若者1人住み込みで雇った。

 

子供達の誕生は何よりも大きな喜びで生きる勇気を与えてくれた。結婚後のことを顧みる。

母さんとは女学校卒業と同時に結婚、明けて4月伸一誕生。親子の情愛、斯くも深いものかと感動、この子と共に全力で行き抜かんと誓うのだった。勝手に故郷を捨てての縁組、そして一子をもうけた現況を鹿児島の両親に伝えたかった。

初めて両親に便りを書いた。

今日までの商売の状況、将来の見込み、家庭の雰囲気等息子が眺めて心配なしと信じているから、安心してくださいと伸一の名前で出した。以来毎週伸一は鹿児島のじいさんばーさんに便りを出した。必ず成功しますと書いていた。

かって徳川幕府の倒壊、廃刀令、路頭に迷う武士達が商売に奔る例が多かったが、武家商法で成功した人は殆ど無かったという。私が失敗した時の用意まで考えて居たとの父の思いを後年聞いたことがある。息を殺して見守っていたのだ。

結婚式は銀行の支店長の媒酌で鹿児島の父、川尻の伯母さんと吾等の計6名で済ませていたが、父は私がパイロットとして郷里で勇名を轟かせた事を誇りにしていたので皆さんに披露の為に是非一度帰郷するようにと便りが会った。

明くる年、親子3人で帰郷した。

遠い汽車の旅、沢山の親類縁者が迎えてくれた。伸一を抱いてお月さんのように可愛いと言ってタライ回しにして喜んでくれた。

明けて披露宴は親類の人、知人、友人で超満員。母さんは少しも臆せずにその若さで堂々と謝辞を述べた。

以来毎年帰郷、章子の誕生、そして徹の誕生に元気百倍、限り或る身の力試さんの勇気が湧いた。

章子は泣き虫で、我が家を出てから汽車の中でも泣き続け八代を過ぎ水俣あたりでやっと泣き疲れで眠るのだった。これはまさに徹底した根性ものになるだろうと思い乍、母さんと交代で社内を抱いて歩いた。

徹が生まれると5人家族の大旅行になった。三等列車の旅は大変だったが、一番手の要る筈の徹はとても可愛い愛嬌者で見知らぬ人が貸してくれと言って子守をしてくれた。

明くる年、3歳位の頃、同じ列車に修学旅行の女学生達と一緒になった。可愛い徹を借りて、次々と渡して2両目3両目と移り何処にいるか分からない。一人の生徒が居場所を確かめてくれる。鹿児島に着く頃連れてきた。徹はニッコリ笑って楽しかったよと言う顔だった。この子は不思議な子だと抱しめながら、素晴らしい子供達を授かったと感謝の思いで我が家の幸せを祈るのだった。

鹿児島のじいさん、ばあさんに送る伸一の便りは尚書き続けられるのだった。

 

店の陣容

今や店は家具建具、それに付属する金具、金網、紙類、額縁等ならべ母さん、バーちゃんは多忙を極めたがいつも笑顔で一生懸命だった。

女性店員一名、子守一名の従業員計六名と新たに始めた木工所の職人二名は住み込みで隈庄町には珍しい。合名会社久我木工所として発足。製造と販売両様の構えで新たな出発となった。

 

材木販売を始める

木工所のならびに2回に分けて材木倉庫を2棟建てた。

注文品を作るのに普通の材木屋から買ってきた桧で作らせても他所の製品に比べて精算が合わなかった。材木商を決意する。

熊本の木材競り市場に出かけた。掛声勇ましく移り行く競り風景を眺め、素人では到底ついて行けない。セリ残しの桧材を買った。程度が悪く建具材には不適だった。お昼の弁当を貰った、とても美味しかった。

以来熊本に砥用の製材所に自転車で出かけ建築材の三寸角柱、三寸五分角柱、一寸五分角垂木、三分板、六分板等トラック一台仕入れた。出かけた折、昼頃立ち寄り弁当を2,3回貰って食べた、ただ食いである。

建具用の桧を仕入れたがあまり良質ではない、更に良質を求めて矢部まで自転車で新たな製材所を探した。途中坂道ばかり、砂利道をノロノロ登るトラックにブラ下って走った。

浜町(矢部)の材木も大同小異だった。

泉村の製材所を聞き出した。この時は単車陸王で乗りつけた。不思議に商品にはそこの主人の性格が現れているものだと思った。例えば三分板一束の中に無節が2,3枚必ず入っている。桧材も幹周り巨木で質が良い。板の無節は選り出して利益倍増となった。この主人はやがて父祖伝来の山を売り尽くして製材所を閉じた、欲の無い人だった。

甲佐奥の製材所と取引を始めた。材質がとてもよくて永い取引となった。然し良質の桧材がなく大工や客の目を引く建具はできなかった。

 

桧山を買う、山師には頼らぬ素人商人の失敗。

甲佐町の津志田の山手にとても素性の良い桧が20本林立している、早速家を訪ねて交渉すれば意外に安い。世話人に相談して伐採、金屋町の牛島製材所で製材して貰った。

製材所の職人は言った、此れはボヤ桧(明日ナロウ)ですよと教えた。タライや桶の材料にしか使えず。

大損して桶屋に安売りした。

次回から山師に頼んで桧山を買う事にした。豊田の藤山の奥に15本の桧の大木があるとの事で交渉して貰って買う。

山師は長さ4m迄切断、道路まで引き出す。後はトラックで製材所まで運ぶ。良材を喜びよくよく点検すれば2本足りない。早速山に行った。反対側の低地に一番上質の大丸太が残されてあった。山師はごまかしが上手と言う声を始めて体験した。

桧山を買うには本数を掴む、平均的な大きさの木を見て、長さ2mを基準に胴回りの直径を計ると容量が分かる。その計算で石数と値段を決める事を覚えた。

2mの丸太は建具材として3cmの厚さに製材する、良質であったらそれだけで買値が引き合うことになる。

残りの2m先は儲けもので建具材として柱材やタルキ材になった倉庫に並ぶ。

扨(サテ)、店は家具建具が陳列され木工場は機械が揃い職人もイザ来たれの構え。木材倉庫は建築材が並び硝子取り付け場所には店員が走り回っている。

一介の素人商人がこれだけの大事業を順調に営業して成功させるには、乾坤ー擲の戦いを勝取らねばならないと覚悟を決める。振り返って此処まで続けられたのは商的、W家具店のお陰だったと感激するのだった。

絶対敵の追従を許さず必ず頂点を極めるであろう、商法は第4部に移る。

それは過ってのパイロットの訓え「失敗は死ぬ事」であった。