第二部


第二の人生、それは総てを忘れて未知への世界を開拓する男の晴れがましい門出だった。遥かなる夢を抱いて羽ばたかんとするこの私にいささかの不安も見せず協力するバーちゃんと悦子は百万力の応援だった。

その昔、祖父の只次じいさんは今村の農家の長男として生まれ、青年期両えげず親と死別、独りになっても不幸にめげず、その家を解いて金屋町に土地を求めて建築された(妻と共に)

そこで風呂屋、宿屋、蚕の繭商い、そして材木商や建具まで商いされた。

子供は父の種雄、伯母の平川ミヤ、次男の熊本の則定が居られた。

只次じいさんは色々の商売に意欲的に取り組み、商人の素質に優れた人に思える。父なる種雄は海軍を退役後、一ノ町池田の娘と結婚、一子裕志を得て後、妻病気で死別される。

一方、大分で兄2人姉1人の家族に生まれた我が孝バーちゃんは士族で名門の学校の先生と結婚。1・2年後に夫は死亡され離縁して親の元に帰る。孝バーちゃんの兄の貞三は俊才、いつしか株に手を出し失敗、一族水俣に移り、やがて砥用に来たり、兄弟別々に砥用で商売を始め一応安定する。

やがて両親は逝き、次兄も他界(上田有康の父)、長女のウメ伯母は大分の矢田家に嫁ぐ。

大分で夫と死別した孝バーちゃんは親と共に熊本へ。大正14年、久我家長男種雄と再婚。久我家には祖父母、夫種雄、先妻の一子裕志が居た。昭和4年、晃誕生、やがて悦子、その後に弟2人が産まれて死亡。

孝バーちゃん夫婦は祖父の仕事を一緒にしながら、何となく不遇の感あり。只次じいさんは、どんな判断をされたのかこの頃、家を離れて全く独自の商売を川尻で始められた。バーちゃんの話では夫の種雄なる人、鷹揚で商売気なく恩給があるからとバーちゃん任せ、ついに長い病床に就き49歳で死亡される。

独りになったバーちゃんは、A君(2歳)を砥用の兄、貞三宅に養子に出す。更に乳児、悦子を大分のウメ姉の所に養女として出された(矢田家)。

後の2児は死亡して、義理の子裕志との生活となる。女中さんを一人置いて、女手で細々と自活の道を歩くことになり悲壮な思いであったろう。

砥用の貞三兄のところから、御茶や椎茸を仕入れて販売。熊本バス隈庄営業所所長一家を同居させて家賃収入と夫の恩給で生活を支えた。

昭和12年頃、悦子の兄、裕志は熊商を卒業、満鉄に就職、家を離れる。

その頃大分のウメ伯母さんは矢田家を離縁、悦子は5年ぶりに久我家に引き取られた。

隈庄に帰り、隈庄小学校1年生。乳児で別れて母親の覚えの無い家庭生活、母親の優しさと厳しい躾の中で、何となく違和感があり、大分の田舎の矢田家や隣人に大事にされた思い出や、身の置かれた環境が錯綜して子供心にも淋しい思いがあったと語った。

然し生来泣き言や愚痴をこぼさず明るい性格で学校の成績もよくスクスクと成長したであろうと、想像される悦子の話を聞くのだった。

この頃次第に国際情勢不穏に傾く(昭和初期)

孝バーちゃんは元来聡明で、意志強く明るい性格で地元からも大事にされ親娘の楽しい日常生活だったと思う。

久我家は食糧営団に貸して家計は一応安定していた。

戦いに敗れた日本は無残な状況だったが、終戦に当っての陛下のお言葉、『朕と共に耐え、耐え難きを耐え、凌び難きを凌び、この難局を乗り越え、日本復興に頑張ろう。』

国民、宮城前の広場に跪き、泣き伏す人々、数知れず復興を誓う情景は真の日本人の姿だった。

 

銀行の融資を得て商売人という未知への世界に挑む気持ちに不安はなかった。すべての過去を忘れて商人の卵に生まれ変わった。遥かなる夢を抱いて羽ばたき始める。新天地を開拓する喜びがあった。

大川町の家具・建具の流通状況は充分調査しているので不安は無かった。

隈庄の町に九州産交の支社があった、早速トラックでの運送を頼む。運転手と助手、それに一緒に乗り込み夜明けと同時に出発、木炭車で砂利道ゴロゴロ、途中南関で木炭の入れ替え作業する。10時頃、目当ての雨戸屋、次いで障子屋を訪ねトラック満杯に積み上げる。帰りは3時頃出発、木炭入れ替え等して家に着く頃は暗くなりかけている。

すぐさま車から降ろした建具は『オー我が友よ』、ガランとした店に光り輝いて見えた。商人になりきらんと誓ってこの建具を撫で廻した。

母娘共に喜んで運転手達をもてなしながら、共に喜びを語り合い記念すべき第一歩だった。

商売は順調だった、第一日目一人の来客、雨戸4枚荷車に積んであげる。お客様は神様だった、心からお礼を言った。有難うと言われ嬉しかった。次第に評判は拡がり、日を追って増える来客に胸の高鳴りを覚えた。

自転車で来る人には、後ろの荷積みに棒を立て斜めに4枚積んであげる。ヨロヨロしながら押して行くお客さんを見送る。

あれが欲しい、これが欲しいと言うお客さんの要望に応えて金具類等揃える。硝子を仕入れ硝子の切り方を習う、日増しに忙しくなるばかり。

色々の種類の建具の仕入れ必要に迫られる。又もや資金の調達を考えねばならない。その頃町では町会議員の選挙が始まった。

30歳になろうとする時、金屋町の班長さん達が我が家に押しかけ、私に金屋町の区長になれと頼まれるのだった。ついに引受ける事になる。折からの選挙戦に金屋町から牛島さん(雲晴寺隣り製材所)が出馬されていた。

毎晩応援に出かける、沢山の応援者の中に時の有力者、H歯医者(Uさんの盟友)が居た。実力者で単純、明るい性格で盃を交わしながら意気投合した。選挙期間中毎夜の付き合いでいつしか信頼感を深くし念願の借入金3万円の保証人を引受けて貰う事になり、感謝譬えようもなし、後年伸一結婚に際し2人の媒酌人を引き受けて貰い有難い事だった。

商売は日増しに盛況、家具の販売を決意する、仕入れはいつも汽車の旅、宇土駅まで自転車で、駅長に卵土産で大川駅往復キップを頂く。前に家具屋の弟子入りで世話になった親方より、タンス問屋を案内して貰って小物・家具・鏡台等仕入れ改めて城南運送で取りに行く。

食糧営団は店を半分だけ開放していたので狭いながら、ギッシリ陳列された。家具・建具は大型店の威容を誇り注目を集めた。売行きに従って仕入れも頻度を増す。今村の縁家で林田長子は熊本駅に勤務して居たので大川行きの切符を世話して貰った。

切符をどうにか自由に買える頃、悦子を連れて仕入れに行く。自転車の後ろに母さんを乗せて川尻の平川宅に自転車を預け川尻駅から大川へ。色々仕入れて帰りは鏡台を3ケ手荷物で持って帰る。川尻から自転車ハンドルに1台後ろに鏡3つを横に立て、母さん鏡台を両手にぶら提げて夜の道を走った。当時の鏡台は今日のものより遥かに小さいが良く出来たものだった。

両手にぶら提げて必死にしがみ付いている姿を想い出すと、健気でいじらしく抱しめたい。

それが今でも不思議な、新婚旅行の思い髣髴。結婚式も新婚旅行もない母さんだがいつも前向きに楽しい毎日だった。

『幸せは僕らの願い、仕事はとっても苦しいが、働く社会に力を込めて明かり社会を作ること、みんなーで歌オー幸せの歌おー・・・』と子供たちも母さんの歌をよく聞いていたと後に言っていた。

昭和24年伸一誕生、難産だった。可愛いこと、度々に笑顔を覗き、我に似ず好男子よと、天に感謝を捧げる思いだった。

その頃、砥用のAさんは中央大学を卒業、学生結婚、妻を連れて帰ってきた。父親は間もなく前立腺癌で熊大病院に入院。Aさんは母親を手伝って商売の道に入る。時々病院に見舞いに行くと、既に病状を察知してか晃さんの商売について指導方くれぐれも宜しくと頼まれるのだった。

私に商魂ありと見てのお言葉かとご心情の程が伺われ、互いに援け合って頑張りますと応えた。次第に衰弱がつのり永のお別れとなる。

Aさんに商法、お客さんを大事に奉仕・感謝の気持ちを話す。元来のんびりタイプ、大事に育てられて明るいスポーツ少年型である。坊ちゃん育ちで悠揚迫らず、小売商人には不向きだった。大分に居た頃の孝バーちゃんの知り合いの世話で別府市役所に就職した。母親は店を閉め家を処分して熊本市京町に小さなうどん屋を出した。

熊本市に出る度立寄り、気持ちだけ差し上げお慰めする事だった。

やがて齢程に体力衰え入院、ついに不知火特養ホームに移した。3年後静かに永眠、ホームで火葬、我が家に晃君始め一族を呼んで葬儀を行った。

 

父種雄の弟、則定なる人は、只次じいお血を受けて根っからの商売人だったという。

小学校時代、金屋町にある劇場で観客の中を回り、菓子やケーおキを上手に売り歩きお小遣い銭を稼いだりして評判の少年だったとの事。青年期、只次じいさんの逞しい商売振りに惚れて天晴れ大志を抱き市内に進出、裸一貫で猪突猛進、活路を開き勇名を轟かせ熊銀の屈指の長者番付けに載った。

然し生来豪傑肌の大酒豪、いつしか病に侵され、昭和18年不帰の人となられた。残された財産を引継いで、長男久我Meは母親に従って建具を販売する。沢山の土地、貸家の収入も有り裕福だった。利己主義で意固地、平凡に売るばかり。次第に競争激化、姉達結婚、自らも良縁に恵まれる。

次男のMaも高校を卒業する、父親譲りの商売人肌で強気の男だった。『独立したいから、道向かいの土地を分けて貰いたい、他は何もい要らない。』と頼んでも、兄Meは承知しない。話をつけてくれないかと母親から相談があった。難しい問題ながら、何とか説得してみようと孝バーちゃんと平川ミヤ叔母さんを立会い人に頼んで出かけた。

さすがに頑固だった、私の説得も無駄かと思った。

突然Ma、立ってまくし立てる。「もう要らぬ、こんな男が我が兄とは情けない。お前を殺して俺も死ぬ。」

この若いMaが真に迫った、ヤクザの様なセリフは堂に入ったものだった。

孝バーちゃんも、ミヤ叔母さんもこの意外な光景に呆れるばかり。暫く私も気を静めて、此処まで築いた親の苦労、兄弟愛、そして生きる事の大切な事、そして子々孫々に素晴らしい人生を語り継がなければならないと説いた。

バーちゃん達の助言もあり何とか落着した。早速Maは建設業、色々の伝を頼り外交に走り一歩一歩地歩築く、そして結婚。勢いに乗って菊陽に豪勢な新宅を建て、天草に別荘迄持ち日の出の勢いだった。幸せ年月、そして又人生は儚くも一瞬の夢か。運命は宇宙の真理によって定められているのであろうか。

本人は勿論、家族・親族夢想いだにしなかった急死に唖然。その後長男が後を引受け、そして結婚した。裁量不明、幸あれと祈るばかりである。

Me夫婦、既に店はたたみ家賃などで2人ひっそり暮らしている。兄弟付き合いも無く老いの道、彼なりの喜びがあるのだろうかと思い廻らしては、久我家に縁あって以来親族の中心的位置にあり、もう一歩踏み込んで面倒見るべきでは無かったかと些か後悔の念有り、久我一族の歩みを知らせたいと思った。

 

時は前に戻りインフレ時代に突入、瞬く間に物価上昇、千円が百円の価値になった。貨幣切り替え・預金封鎖・初めての体験に戸惑いながら暗中模索で切り抜ける。時代が安定するにつれて、競争時代に入る。一番の競争相手は一ノ町、Wa家具店。戦前から県下に誇る松橋町のS家具店の次男。専(もっぱ)ら外交を一手に隈庄迄販路を拡げていたという。隈庄に養子縁組して家具販売には自信満々だった。

家具の本番は嫁入り道具を売る事だった。店頭に陳列している嫁入り道具を見に来る客はあったが商いにならない。状況を検分するとW家具店の独断場となっている事が分かる。彼の永年の体験で夜討ち朝駆け、一発必中の体当たり戦法を見た。戦わなければ生き残れない。

農村は朝早くから夕方遅くまで、食糧増産に必死だった。

その頃嫁入りの決まった家を如何にして見つけ出すか、一部落に一軒あるかないか。彼に習って朝起きると同時に外交に出かけ、夕方仕事帰りの頃を狙う、まさに争奪戦である。彼の外交力にあそこも、ここも取られ悔しさ例えようも無く、泣き泣きの思いで母さんまで苦しめた。嫁入り道具は取られても他の商品を沢山陳列してバーちゃん母さんの協力で程々の売れ具合が続いた。

外交戦にも慣れるに従って、信頼して買に来てくれる客も出て来始めた。

当時、隈庄以外の地、熊本市・川尻・宇土・甲佐・御船の家具店で外交販売をする店はなかった。町外周の町村に足を伸ばしたら効果充分、富合の○○様・宇土住吉の○○様・豊野村の○○様・御船,甲佐,嘉島の○○様、御買い上げの札を商品に貼り出した。

遠攻近守作戦は見事に成功してそんな遠くから客が来るのかと驚き、それが信頼を寄せ客数を引き止めた。

建具は優勢を誇るも地元で、川尻御船の建具職人が桧材でつくる立派な製品は異彩を放ち、大川製品は既製品の杉材で評判が悪くなった売上げが落ちた。

熊本市で昔から建具職人で独りでコツコツ桧で立派な建具を造っている所に出会った。4枚づつ週2回自転車で運んだ、好評、忽ち売れる。

或る家を訪ねた時、大川の規格品ではない素晴らしいタンスが届けられていた。家具店から買ったと言う。

色々探索の結果、中央町の職人であることを知り、早速相談すると他には出さないように言われているとの事、内緒で頼む。

なる程、材料といい技術といい素晴らしい。陳列すると忽ち売れる、貴重な体験をする中憎らしい商売敵は我が恩師である事を知った。先手必勝の外交戦を習った。

『用意周到、綿密な計画、果敢断行、失敗は許されず、それは死ぬ事である。』

鍛えられたパイロットの教えを思い浮かべるのだった、まさしく商戦である事を知る。

 

自転車で走りリヤカーで運搬するサービス時代に突入する。

商品も金物・硝子・塗料・紙類・家庭用品・仏壇・材木へと拡大する。

章子、徹の誕生。可愛い事、この子達の親である喜びはどんな苦労も吹き飛ばした。我が家の繁盛振りを不思議に思う人もあった。そんな思いか本町にF家具店ができた堂々たる建物である。

同じく本町のKが建具店を開業する、朝日町にI建具製作所、二ノ町Oの材木硝子店等、競争厳しさを増す。

我が家は子供達を中心に喜び燃え突破口を開いて劇的に発展していった。(平成17年3月5日回顧)