第五部


思い出すたび重複することだろうと思い乍書く。

城南町に「平和の集い」という会がある。

或る時、子供達に戦争体験を話せと依頼があった。町内の男女3,4名の者が文化センターで発表することになった。それをテープにとって小文集が発行された。熊本日日本新聞からも取材された。

戦争体験者として戦前戦中の青春を語り 次代を担う『親子で考える平和の集い』の会に平和日本の将来を期待したい。

 

私は少年時代から大空に憧れていた、昭和13年満17歳で念願のパイロットになることができた。アメリカでライト兄弟が世界で初めて空中に舞い上がった日から34年目である。 当時郷土にはパイロットは居なかったので小学校の全校生徒が校門前で送ってくれた。肩を張って得意になって歩いた

空中での訓練はとても厳しく恐ろしかった、死んでも良いと思うこともあった。特殊飛行高空飛行・遠距離航法・空中飛行・空中戦技・空襲射撃・夜間飛行等連日4年間鍛えられ最後の飛行第四戦隊の戦技訓練を卒えて昭和16年4月 一機当千の戦闘機パイロットになった誇りを噛みしめた。

 

戦雲次第に急を告げる、静かに振り返ると愛機と空に上がれば群青の空が果てしなく続き雲海の上は地上と隔絶した別世界だった。 深海のような静まり返った中に爆音のみが哀調を帯びてリズミカルに好きな音楽を奏でてくれるのだった。 また空の生活は不思議にも楽しいスポーツ的感覚でしばし無我無欲の歓喜に浸る時でもあった。

 

われわれの抱く飛行機はいくら撫ぜても眺めても飽きることを知らない恋人だった。 すべてを抱擁する大空で独り考え、独りで判断し独りで瞬時に対抗できる創作の絶好の場所であり、ぎりぎりの瞬間でもあった。 衝突寸前に体をかわす全身全霊を打ち込む極限における戦いの日々であった。

現代とはあまりにもかけ離れた時代の中で、とても悲惨なことが日常になっていたあの時代、国を守るという戦いの中で、大空を自由に飛び廻ることの魅力、そして死と隣り合わせても この飛行機に乗っていたいと思い続けられたことは、私を燃焼できる対象をもてた幸せな時間だった。 そんな緊張感が我々には心地良く 私の生涯で最も燃えた青春だった。

 

昭和16年3月、飛行第四戦隊での戦技訓練を卒えて憧れの陸軍航空兵少尉任官の辞令を貰った。 金ピカの軍服で申告、戦隊長、林大佐の祝いの言葉に将校たるの自覚、第一段階を突破した喜びを感じた、20歳。

 

このとき第一線部隊に派遣されるものと信じていたら、太刀洗飛行学校隈庄教育隊付きの発令に愕然とした。 少年飛行兵15期生の教官である。隊長は高梨少佐 教官主任は福田大尉、共にノモンハン戦での勇士達だった。更に他の教官助教授達も歴戦の勇士揃いで、その中に岩瀬曹長なる人が居た。ソ聠戦ノモンハンで敵機との空中戦で編隊長機が敵の射撃でエンジンから火を、黒煙を噴き乍草原に緊急着陸する。 岩瀬は僚機に合図して草原で燃え盛る飛行機からの脱出を見届け、生きている可能性を確かめ、強行着陸、単座戦闘機の胴体下部の点検窓を開け焼け爛れたパイロットを引き摺り押し込み、僚機援護の下、無事離陸、大胆不敵の敵中突破だったという日本航空史に残る美談だった。

その編隊長こそ現在本校の教育隊長 松岡大佐だった。 顔は焼けた爛れ鼻もなく、口は切り開いたとの事、いつも大きなマスクをされていた。時代の驚嘆に値する英雄的存在だった。

 

本校で一年間ミッチリ地上訓練を受け希望に胸を膨らませた少年航空兵達の目は輝き 既に命を預けたお任せの純粋さが感じられた。 4年前のわが思いと重ね合わせ責務の重大さを思い知るのだった。 助教達は准尉・曹長・軍曹で年長者の猛者達を前に区隊長の威厳を示すのだった。

 

昼間飛行兵の教育訓練が終わると、教官助教は薄暮飛行、夜間飛行で空中戦技、有明海上空で実弾射撃の訓練である。97式戦闘機6機 隼戦闘機2機 標的陽に直協偵2機を常備していた。

 

昭和16年12月8日、大東亜戦争勃発。私は茨城県筑波飛行隊に転属、帝都防衛に当ることになる。真珠湾攻撃、南方戦線へ破竹の猛進撃で連戦連勝に酔う時、17年4月突如帝都空襲にわが耳を疑う。アメリカは日本の虚を衝いて航空母艦に軽爆撃機を搭載してひそかに日本近海に近づき発艦、一経過爆撃、東京を空襲してそのまま中国に向かって飛び去った。吾等が飛び上がった時は敵の機影は遥か彼方で東京のあちこちで炎の上がっているのを見て唖然とした。勝利に酔う間の油断を衝かれた。

 

昭和18年再び隈庄教育隊に移動する。地上部隊から適性検査に合格した下士官学生の教育にあたることになった。大空に憧れて志願した彼等は少年飛行兵達に劣らず純心無垢、真剣な態度で航空兵になれる喜びを感じているようだった。

 

昭和19年に入り福岡県芦屋飛行隊に異動、北九州の防衛に当ることになった。 折りしも中国の重慶に駐留する米軍B29爆撃隊の夜間空襲にあった。 芦屋には二式戦闘機部隊と四式戦闘部隊が待機していた。私共の隊は一式隼戦闘隊だった。情報により夫々三空域に待機した。敵の来襲高度は1万2千メートルだった。

二式戦隊と四式戦隊は性能優秀で3機撃墜した。

吾等の隼戦闘機は高度1万2千メートルでは性能落ちB29に近づく事ができず涙を呑んだ。

 

昭和19年7月朝鮮京城教育隊長を仰せつかる。航空兵中尉23歳の若造にどうしてと聞いた事があった。経歴書に指導、統率力ありと書いてあるとの事だった。少佐クラスの統率力を持っているのだと自らを慰めた。

京城隊に着任、営門を通過すれば営門には既に『小屋敷隊』の門札板が掲げられ5人の衛兵が整列して迎える。隊長を自覚する。

庶務主任が隊長室に案内する。

経理部長・整備隊長・軍医・気象班長の挨拶を受ける。明けて隊員全員集合して着任の挨拶と訓示を述べる。

 

京城飛行場は朝鮮の要に位置し朝鮮軍司令部の飛行班、第八航空師団司令部の飛行班、民間航空の飛行班が連絡用の輸送機の発着や、気象等について指示を受ける飛行場指令が置かれていた。私に飛行場指令の任務があった。軍や師団長の移動に随行する。参謀達が飛行機の発着について申請に来る、彼等が言ったことがある。(中尉ごときとは言わないが)京城隊長で飛行場指令とは凄いねと。

 

ある時、朝鮮総督、南大将が何処かに出発されるとき一時気象異変で侍従の人と隊長室に待機されたことがあった。我が子2人が戦闘パイロットになったが2人共空中戦で戦死された事を話された。そんな事でパイロットの訓練には興味を示され激励の言葉を頂いた。

 

或るとき朝鮮総督府に将校数人共にご案内をいただいた。隊長が公用で外出する時は勿論、胸に隊長章がついているし、自動車には隊長旗を立て衛兵が送迎した。一城の主を体験した事は生涯の誇りとして大事に胸に畳んでいる。

 

少年航空兵の飛行訓練と共に教官・助教の夜間飛行、戦技訓練、そして体当たり特攻訓練に連日励む。

 

昭和20年日本の飛行機の生産量は急激に落ちる。500時間以上の搭乗時間保有のパイロットで私を最後の隊として特攻隊を五隊編成し訓練しては一隊又一隊と内地の基地に送った(二隊で終わった)。送別に当り『我国は古より武士は君の御馬前に討死するを最も名誉と心得た、事ここに到れば我々全パイロットも諸士の後に続くであろう。』と述べた、今も胸の痛む思いである。

このとき私は航空兵大尉24歳だった。

 

20年8月終戦の詔勅が降りる。

 

終戦は青天の霹靂で生き残った者達との再会で当時のパイロット達が大空に散った純粋さと苦悩は語るに切なく又戦後の時代感覚の中に曝すに耐えられず我が胸のみ秘めて大切に守り続けたい思いであった。戦いすんで空を失って、もう還らぬと知ったとき空を友とし住み家として日夜親しんできた鳥人達は空を仰いでは長嘆息し悲憤の涙に暮れた。

 

命を亡くした人、肉親を失った人、家を失った人、職を失った人、数えればきりもない。

 

紺碧の澄んだ空を仰いでは縦横に快翔する心地良さを想い、泣き出しそうな荒れ狂う空を眺めては胸も張り裂けそうに痛み皎々と輝く月夜の空には懐かしい過去を想像し、暗黒の夜空に向かっては絶望のおもいに心を締め付けられるのだった。然しいつまでも過去を引きずる事は許されない。

 

宇宙には膨大な銀河系や太陽系が無数にある。それらは総て一定不変の法則に従って回転している。この法則に乗って我々人類は難なく宇宙船を月に着陸させた。宇宙の中で豆粒ほどの地球の中、微粒子のような私達の体は回転する宇宙と一体でその心理によって生かされている。我々の体内も小宇宙と言われその血液さえ赤血球、白血球がそのバランスを保つ為戦っている。

人間の脳に多数の細胞があり人類始まって以来の遺伝子によって個性が作られている。その個性が欲の魂で争いの源泉であり永久になくならない。

世界史を見ると古代ギリシャ世界から戦争は人類の歴史で常に存在し以来今日まで百回以上の戦争があった。殆ど侵略戦争で植民地化されている。

 

戦いと平和は常に裏腹で我々は理想として常に平和を維持し続ける努力が必要であるが、世界のどこかで毎日血みどろの戦いが現実に続けられている。わが日本でも北方領土・尖閣諸島・竹島、エネルギー開発問題、国連常任理事国入問題で隠忍の苦しい立場に立たされている。内政干渉する中国の靖国参拝反対に応ずるなら、事毎に中国の弾圧に屈することになる。 近隣諸国の反対は日本の大国化を恐れての妨害であり、今こそ日本は国連理事国入りを果たし国連の力でこの難題を解決すべきです。

自分の欲望を満たす行為が例え違法であっても解釈次第で正当化されやすいから紛争の種は尽きない。

城南町の一角に芽生えた平和の集い『いのち』がやがて世界の強力な組織に広がり世界最高指導者会議を動かし紛争防止を訴える偉大な集いとなることを期待し 美しい日本の歴史・文化と伝統を・明日を担う誇りある少年達に継承したい。

 

昭和30年前後

商戦で最も脅威的存在は税務署だった。

或る日突然抜打ち的に署員が来て帳簿や在庫調査して所得隠しはないか目を光らせ捜索した。帳簿が無い店は署員の判定で課税するので外観や在庫を少なくして誤魔化しの対策も流行った。

堂々外観を張って精一杯飾り立てる家具店は注目の的で自然税務署員に目をつけられる対象となる。

 

或る年、突然予告なしに署員が調査に来ていきなり在庫は何処かと二階まで調べた。 裏の倉庫は気がつかなかった。その時は知らなかったがその署員は後年商工会時代 細川さんの選挙違反をでっちあげたK理事の弟でWタンス屋と親しくつき合っていたことを知った。 然しWが私を陥れる策略は効無く彼は次第に衰退の一途を辿るのだった。

 

わが商法は記帳を確実にして手落ちなく母さんの綿密な帳簿の整理で不安はなかった。

 

只、ここでもパイロットの訓え『失敗は絶対に許されぬ、失敗は死ぬ事である』が頭にあった、不正を承知で毎日の売り上げの数%を匿名でA銀行に預金した。

如何なる不況が来ても突破できる磐石の構えだった。

 

Ⅲ先代のT種物屋店の弟さんは素麺製造で金屋町の高額所得者だったが驕る平家は久しから

ず遂に閉店の道を辿る。

 

T本家はその家をやがて自分が引き取ることになるだろうと予測していたらしいが仲買を頼んで私が買入れた。T飼料店は自分が買う筈だったと人を介し転売を求めたが応じなかった。改装して家具陳列倉庫として活躍した。

 

Ⅳ久我木工所を合名会社久我家具店と改名する。久我家具店は家具・建具・建材は勿論、金物・塗料・壁紙・襖紙・障子紙等、更に子供用品・額縁・仏壇迄ありとあらゆる物を陳列して、木工所では規模が小さくうつり、合名会社久我家具店に改名し近隣市町村に存在を示すのだった。

 

稲田左膳と名乗る私設記者が居た。絶えず我が家に立寄り昼食等軽く食べてゆくような気安さがあった。 町や個人の批判的な記事を書いたりして一目置かれる存在だった。『この店に何時来てもお客さんが居ない時はない』と彼は他所様にもよく話していたらしい。普通の会話の中でこの店の宣伝をしてくれているのかなと思うのだった。 母さんバーちゃんは店番を引受けてひっきりなしに来てくれるお客さんを気持ちよく迎えた。楽しそうに又来ますと帰るお客さんの笑顔こそいつも優しい母さんバーちゃんの心からの接待によるものだった。s

 

宇土市への進出をうかがう

隈庄町は国道から外れた寒村でかって大地主と小作人階級の土下座的風習から発展性のない町と言われていた。宇土のE家具店の主人は職人で商人の素質に欠けやがて食料品店に切り替えたが、間もなく主人は亡くなった。家具店の無い宇土進出の好機かと胸を躍らせた。

 

昭和40年から熊本市高橋弓道場に通って弓道を習った。2年後小川から一人松橋から三人、宇土から五人 宇土市役所の空地で弓道例会をする事になった。暇を見ては宇土で練習した。その頃、宇土市街中心から3号線への道路計画で測量が始まっていた。杭打ちの状況を眺めると道路に沿って幅が80m奥行き15mの細長い田地が目についた。ここを手に入れられたらその奥はいつでも買えると見た。 或る日元京城飛行隊で経理部長だった徳永中尉に会った。彼は復員して宇土で不動産屋をしていた事を知り早速この田地の取引を頼むと快く引受けてくれた。 彼の世話によってこの重要拠点を買い入れる事ができた。道路の用地買収は徐々に進み2年後3号線迄測量が進み、見渡せばまさに宇土市発展の要衝と見た。失敗は絶対に許されない。我が必勝の作戦は見事成功した。

 

わが用地の奥隣は同じ幅で500坪の田地が続いていた。徳永不動産屋にもう一度地主との交渉をお願いした。道路沿いと違っていくらか割安で商談が成立した。その頃家具店がなかった宇土市に突然H家具店が出店し急速に販路を広げ始めた。 ついでダイワリビングが登場して大型店の偉容を誇り競争時代に突入する。

 

道路整備が終わるや、その辺一帯は宇土市街の中心地となり体育館・武道館・プール・野球場・テニス・弓道場まで体育施設が揃い一大公園化の風景を見るに到る。当然商

土進出反対運動を展開していた。再三貸借契約を解除してくれという、私は話した。大型店も進出は時代の流れです、大型店の集客力によって町が発展すると言って帰って貰った。

城南町には唯一、久我家具店のみが残った。

わが必勝の商法は微動だにせず上下益城で一位を占める。バーちゃん母さんに感謝するのだった。

 

観光ツアーが流行り出した。

バーちゃんを旅行に出してあげたかった。

竹士さんのバーちゃんを誘って日本一周ツワーに申し込む。鹿児島のバーちゃんも案内した、一週間位だったかな、大変喜ばれた。以来小旅行に時々参加され楽しそうで安心した。

 

我々も母さんと折を見て北海道・中越・京都・四国・沖縄・台湾・韓国・ヨーロッパ・中国・オーストラリア等。

記念すべき旅ができて一応母さんを喜ばせられたかと安心した。