第四部


謡曲の会

昭和23年家向いの銀行で支店長は謡曲の会を始め町の美少年、西海を始め、有志の面々7名、熊本市金春流の先生の指導で稽古した。

毎週土曜日練習を続ける中、2年後支店長転勤され場所を美少年に移した。教本は先生の本を借りて書き写した。30数巻を卒えて先生の都合により終わりを告げた。以来度々の結婚の媒酌や招待の席で高砂の曲が好評を博した。

以降詩吟・民謡の会と今日まで続いている。

 

地域との密着(昭和25年

結婚して3年目、金屋町で商売する店が12軒あった。いかにも暗い感じで発展性に乏しい思いがあった。店の長老Toさんに話しかけて金屋町廉売会の大旗を立てた。久我商店から林学校用品店、岡村仕立て屋、宮原鮮魚、寺井繭(マユ)商、渡並小料理店、外海氷屋、向い側に牧野薬局、川越商店、早瀬旅館、林衣料、徳永種物、上田下駄、野原写真屋等がずらりと並んでいた。はためく大旗は異彩を放ち評判になった。

 

昭和35年頃、消防団長となり軍隊における号令調整のお陰で大声が役たった。火災出動が2回程あり燃え盛る炎の恐怖を感じた。

町を明るくする事を考えた。

 

昭和42年、川尻町に鈴蘭燈を扱う人が居ることを聞いて交渉すると月賦で付けてくれた。突然光り輝いた金屋町商店街は、隣の劇場の拡声器の音楽にのって活気に満ち注目の的になり、毎夕大利根無情が鳴り響いた。

1年後二ノ町が付けた。3年後一ノ町、本町がつけ、更に四年後町の隅々まで防犯燈が付けられ暗くてこわいイメージから一変、明るい隈庄町に躍進の兆しが見えてきた。

 

隈庄町に名物行事が欲しかった

踊りの先生に川越順一さんが居た。盆踊りを教えてと頼むと快く引受けてくれた。商店街の姑さん、お嬢さん達20名を動員して光徳寺で練習した。金屋町に工芸者で三味線の上手な人が居た。お盆の中日に金屋町から二ノ町迄三味線に合わせ囃(ハヤ)子、掛声勇ましく踊りまくる。吾等男性組みも数名先頭に立って一大絵巻を繰広げた一挙に大評判となり、1年後二ノ町が加わり大盛況、2年後町の観光協会が取り上げ、今や城南町夏祭り総踊り大会となって続いている。

 

我が観光協会長として提案した遊歩道大会。

雁回山〈木原山)は源為朝ゆかりの歴史上の名山。この町も甲斐の守昌城主を最後に甲斐雲晴寺が第十七世として引き継いでいる。由緒ある隈庄城址がある。高い所から我が町を一望して我が町の発展策を考えようと、町長を先頭に雁回山登りを始めた。以来今日まで雁回山遊歩道大会として続いている。

 

商工会

商工会は初代緒方美少年社長の後、荒木次男氏が一期2年の後、三代目商工会長を引き継いだ。

これまでの商工会は役場の小さな公民館の物置を借りて事務所にしていた。

商工会館の建設を提案した。

理事会の中で、そんな大袈裟なものはこの町には必要ないとの声や小学校に不要な物置があり、それを貰って改装して建てたらとの声あり、新築には賛成の声がなかった。そして、金策の目当て如何にと詰め寄る。

会長50万・副会長15万・理事5万で計150万円、町内外の会社有力者、一般町民からの寄付で300万を集める。それ以外は町の補助を申請すると後は熱弁を奮った。

会長50万円寄付の声に会館建設の意気込みを察してか賛成の声が上がった。

会館建設計画を町長に提案、その熱意を汲み承諾を頂いた。

以降町内外の会社・病院・銀行・郵便局から個人にいたる迄募金に狂奔する理事たちの姿があった。計画は予定通り進行して町のご協力により見事に竣工した。

落成式には多数の会員、協力者、来賓の皆様で立錐の余地もなく特に県知事のご臨席は感動的だった。

開会に当り会長挨拶はこの日の為に練りに練った草稿で吾乍驚く程サラサラと出来た。しかしさすがに興奮の気あってか喉がカラカラになり途中で水を要求した。後日その動作が堂々たるものだったと意外な所を誉めてくれた人が居た。

この建設に当り協力的だった理事達を連れて自費で何回か熊本市内に案内して労をねぎらった。

 

商工会長三期目のときだった。(昭和52年)

細川護煕氏が参議院選挙に立候補され商工会に挨拶にこられた。

以前タビックスの韓国ツアーに母さんと参加した事があった。偶然細川さんの奥さんも一緒で、旅行中親しくお付き合いした。以後立田の細川邸に案内を受けたりした。或る日、商工会館建設に協力して貰った理事10名と二ノ町中村魚屋で会食して一杯飲んだ、その折細川さんの立候補について協力しようではないかと話した。

数日して熊本南署から私服の警官が2人、お尋ねしたい事があるから同行して貰いたいと連れて行かれた。聞かれる事に応答した。問題は細川氏の選挙応援の買収があった筈だとあの手この手で問い詰めるのだった。

悠然と否定し続けるのだったが毎日同じ事の繰り返しである。話が済むと収監所に入れられる。各室2畳、トイレがついて金属の格子がついて警察官が見張っている。

明くる日手錠をかけられ連れていかれる。昨日と同じように訊問が始まる、変わらぬ応答で終わり手錠を掛けて又拘置室に連れて行く。

3日目、手錠を掛けて自動車に乗せられ裁判所に向かう。道行く人達、車の往来を眺め始めて繋がれて行く自分の不思議な世界を感じた。

毎日南署と同じく聞き取り、日頃の生活状況、経歴等を優しく聞き取るのだった。

入浴は監視付き、脱衣1分・入浴2分・体洗い3分・着衣2分と定めてあるからと指示する。金を貰ったと言へば直ぐ釈放されるのにと自白を仄めかす。昼間は自由な時間でも起きて座って居なければならないと言う。読書は構わない。母さんが心配顔で差し入れだとご馳走や着替えを持って来てくれた。何の不自由も無く、寧ろ誰でもが生涯味わうことができないであろう不思議な体験をさせて貰っていると感謝している位だから心配無用と言った。硝子越しの面会時間は5分だった。

一週間後釈放された。

バーちゃん、母さん、そして商工会喜んで迎えてくれた。後日、商工会事務長は二ノ町・中村屋での一件を選挙違反だとM理事が訴えたらしいと話した。

年度末の総会で会長辞任を告げた。後日理事の一人N野さんは石碑を持って来てくれた、有難く自宅のカウンターに飾っている。

『我を捨て互助の心を忘れず、和を尊ぶ心 豊かさこそ 真の人が辿る道 明るい未来の標識なり』と刻まれている。

 

弓道

昭和49年熊本弓道連盟に入会、毎週熊本市高橋道場に通い指導を受けた。人吉・牛深・山鹿と昇段試験に駆け回り、高段になるに従って鹿児島・福岡・長崎・佐賀と回り昭和48年漸(ヨウヤ)く5段。平成5年錬士の称号を得た。

昭和60年城南町弓道教室を開講8名の受講生が1年後全員初段。平成元年第二回教室生募集、10余名応募。練習場はBG体育館だった。宇土市・下益城郡の弓友を招待して弓道大会を開催、町長を案内。20名余命の試合振りを観戦され町長にお褒めの言葉を頂いた。

以来機を見ては道場建設を陳情、4年後の平成4年下益城郡で唯一の見事な道場が完成、落成式には多数の来賓出席の下、盛大な落成祝賀弓道大会となった。弓友会長の衣冠(八代より借用)装束での礼射は喝采を博した。

 

子供たち

伸一・章子・徹の小中学校時代PTA会長に推される、会長挨拶で伸一が不安そうにモジモジしながら聞いていた。

昭和42年徹はマリストに中学から入学し少年時代から親元を離れ寮に入る、絶えず書いた私の葉書をいつも見せて頂いていると舎監の先生から聞いた。

 

雲晴寺先々代住職、甲斐正真さんは白い鼻・顎髭を長く伸ばし、まさに和尚の貫禄十分で結婚当初から親しくお世話になった。先代の高道さんの代で仏教壮年会が設立され初代会長を仰せつかり次いで仏教総代会長から縁陽組(17ヶ寺)会長として永年40年勤績表彰を3年前に戴いた。45年そして50年と続けたいと思っている。

仏教の教えは南無阿弥陀仏である、印度語で南無とは引き寄せること。阿弥陀は宇宙の真理を表し、仏は目覚めさせるという意味があると教えられた。

お釈迦様は2500年前我々が想像も及ばない真実の世界が一定不変の法則に従って回転する宇宙一体の存在として私が生かされていると教えている。

お任せして今日を精一杯生きる。お任せした上は如何なる障害に遭遇しても、例え死に直面しても平然として之を受け乗り越えて行く勇気ある人生が開けるというこの教えを私は信じている。